【つぶやき】生きるために生きるということ

つぶやき

こんにちは!づっきーです。

今回は、最近考えていることについて少しだけシェアできたらなと思っています。

づっきーは基本的に、常に何かについて思想を巡らせています。

きっと答えのない問いについて永遠に考えていたい、という生態もあってか、自分を理解してもらえないことも多々あります。

特に母にはよく「づっきーが何を考えているかわからない」とか、

逆に「なんでこれがわからないの」とか、

「普通に考えて」とか、

いろんな表現で自分が”普通”を理解していないこと、そして”普通”に考えられていないことを伝えられてきました。

おそらく母の”普通”は万人受けするものなのでしょう。

でも、その”普通”とは違う基準で生きている人はづっきーだけではないはずです。

もし、母の”普通”が9割の人によって理解されたとしても、残りの1割の人には理解されないかもしれません。

こう考えていくと、自分なりの”普通”を持つことは美しいことですが、

それを他者に押し付けることはやっぱり違う。

というか、他者が持つ美徳のバブルの中に無理やり自分の美徳を突っ込もうとしても、

弾き返されるか、もしくは「そういう考え方もあるのね」とあくまでバブルの表面に新たな美徳をくっつけてもらえる

くらいの影響力にすぎないんだろうなあ、なんて思えてきますね。

前置きが長くなりましたが、本題に入っていこうと思います。

生きるために生きるということ

またなんだか小難しいことを言っているな、と思うかもしれませんが。笑

づっきーはこの数週間ほど、ずっと「生きること」について考えてきました。

というのも、人生において当たり前とされていることだからこそ、ふと立ち止まった時に

「ああ、また余計なことに気づいちゃったな」

とモヤモヤしていたので、ここで吐き出そうかと思ったのです。

生きているだけじゃ生きられない

人って、生きているだけじゃ生きられないんですよね。

「生」にとてつもない美徳を持っているくせに、無条件には生かされない。

これって、ある意味矛盾している、というかすごく不思議なことだな、と思ったんです。

大概の人は、ただ「生きる」ためだけに、勉強するか、働くか、職を探すか、それとも全てをこなすか

どれかしらを常に遂行していると思うんです。

どれもやらないなんて選択肢は与えられていない。

「私は、人間として勉強して働いて生きていきたいので、この世に生まれさせてください」

なんていう風に、誕生する前に宣言した者たちが、人間として存在しているのでしょうか。

進化の過程で、とんでもない知能を持ってしまった人間は、システムを作らなければならなくなった。

そのシステムこそが「社会」ですね。

勉強もせず、働きもせず、職探しもせず、ただ閉じこもって生きている人は、「社会に適していない者」というレッテルを貼られる。

人間は、社会に適した者として生きるために、生きているように見えます。

それもどこか苦しそうに、そして窮屈そうに。

それでも束の間の休暇によってあたかもリフレッシュできているかのように自分を錯覚させて、また学校や職場に帰っていく。

づっきーには、その光景がどうも不思議でたまらないのです。

どうして人は、「ただ生きている」ことは許されないのでしょう。

「発達障害」という後付けの分類がありますが、それは同時に「発達しすぎ障害」と言える可能性も含まれているのかもしれないですね。

生きる理由

もうひとつ、「生きること」について、生きる理由ってなんだろう、と考えていました。

づっきーが現在、生きている理由。

それは、美しく死ぬ方法がまだ見つかっていないから

かもしれません。

づっきーの夢は、美しく死ぬこと、です。

では、「生きる」とは何かというと、それは、死ぬまでの過程に過ぎません。

今生きている人は、生きている状態しか知らないからこそ、生きることに重きを置き過ぎているような気がします。

もちろん、人生楽しいですという人はそれでいいです。

でも、もしづっきーのように何かしらの「生きづらさ」を感じている人は、「生きること」を意識し過ぎない努力も大事なのかもしれません。

「生」とはあくまで「死」までの過程

こう割り切って考えてみると、すこーしだけでも気が楽になるかもしれないですね。

づっきーは元々、「生きること」に固執していないタイプの人間です。(そんなタイプがいるのかは分かりませんが。)

だからこそ、「生きていたくない」という気持ちが大きくなってしまうと、すぐにバランスが崩れてしまいます。

でも同時にづっきーは優柔不断なんですよね。

この優柔不断さに、自分はここまで生かされてきたんだろうな、と思います。

生きている理由は、必ずしも持ち続ける必要はないと思います。

「ただ生きている」

それだけでも、生きることに重きを置く人間としては十分過ぎるほど立派な働きをしているのではないでしょうか。

生きる理由がなくなった、生きる理由がわからなくなった

そんな時は、

そもそも世界の論理や倫理、自分の行為や価値、これらひとつひとつにいちいち理由なんてつける理由があるのだろうか

というところから考え直してみるのもありかもしれません。

もちろん、考えたければ、の話です。

きっとここに書き留めたことは、づっきー思考のごく一部に過ぎません。

でも今は特にこれ以上思い出せないので、とりあえずこの辺にしておきます。

また書き留めておこう、と思い立ったら書いていこうと思います。

では、来るかわからない次回まで。

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