こんにちは!づっきーです。
今回は、父親の苗字を仮に「田中」として、自分の中にある「田中」の血について語っていきたいと思います。
それでは今日も最後までよろしくお願いします。
田中
づっきーは、父親の苗字(仮に「田中」とします。)を受け継いでいるのですが、
普段は母親といることが多かったからか、これまで田中の血を感じることはほとんどありませんでした。
そんんな中でも、時折「田中」を感じる瞬間があります。
自分の中の「田中」に気づく時
親戚の集まりが定期的にあったりと、親戚同士の繋がりが強いからか、
づっきーはいつも自分の位置付けを母親寄りに置いてきました。
幼少期は特に、父親は仕事が忙しかったため、”母親に育てられた” という意識が強いのも関係しているとは思います。
母方の実家は農家ということもあり、田舎コミュニティとでも表現できるでしょうか、
非常に関係性が深く、人数もとても多いため、親戚が一同に集まると、
各々が勝手に喋って、人の話は聞いていない、といったような、中々カオスな状況になります。笑
でも、時々、自分の中に「田中」を感じる瞬間があります。
それは、親戚の集まりに疲れている自分に気が付いた時です。
いくら育ててくれたとはいえ、母には絶対に理解できないこの気持ち。
当たり前ですが、母は母方の血筋しか引いていないわけであって、
人と関わることも、大人数で集まることも厭(いと)わないことでしょう。
しかし、づっきーは、母と父の両方の血を引いています。
母寄りの人間になりたいと思って、これまでいろんな親戚の集まりに参加してきたし、
(というよりも、子供だったため参加必須だったとも言えるかもしれません。)
おしゃれ好きな従兄弟(いとこ)たちに馴染みたくて、自分磨きも頑張ってきたつもりです。
しかし、表面上は変えることができても、性格とか気質といった、内面的なものを変えることは難しいものです。
見えるものについて考え、変えることは容易な場合もありますが、
見えないものに気づき、目を向け変えようとすることは、そう簡単なことではありません。
小学生のとき
づっきーの小学校に通う生徒たちは、
「人の見た目に関わる悪口は言ってはいけません。なぜなら、見た目は変えられないからです。」
と、先生に叩き込まれてきました。
その理念って、単純な思考回路しか身についていない小学生までにしか通用しないわけであって、
年を重ねて、思考回路が複雑化したり、
アルバイトができるようになって、自分の力でお金を稼げるようになって、
そのお金で整形手術を受けることも可能になる、ということを知ると、
それはもう、通用しなくなります。
それに、人の性格に関わることであれば悪口を言っていいの?
という疑問も湧いてきます。
でも、実際には、
人々は案外、見えることよりも、見えないものに悩まされることの方が多いのではないでしょうか。
確かに、小学生は駄菓子を買うくらいのお小遣いしか与えられないため、
髪を切るにも、新しい服を買うにも、親の存在が必要になってきます。
これらは見た目に関わる物事ですね。
だからこそ、見た目にコンプレックスがあっても、我慢するか、そんな自分を受け入れるか
の、2択しかないのかもありません。
づっきーも、ずっとそうでした。
小学3年生の時にメガネをかけ始めてから高校に入るまで、
自分の容姿に自信を持ったことなんて、一度たりともありませんでした。
づっきーの家系は、基本的にみんな視力は悪く、づっきーはその中でも遺伝を遥かに超えて、
視力の低下が激しいものでした。
視力テストの結果は、毎回ズタボロでした。笑
でも、づっきーだって、自分がなりたくてそうなっているわけではありません。
遺伝的に偶々、視力が低下してしまい、結果として眼鏡をかけざるを得なくなった。
でも、強い意識過剰にも、自分の顔について悪口を言われているんじゃないかって常に怯えていたし、
だからこそ友達作りも怖かったです。
自分なんかが「友達になろう」なんて話しかけたら、相手は嫌な思いをするのではないかって。
小学生ながらに、自分でお金を稼げるようになったら、まず最初に顔面を剥いで、
顔面の原型を留めないくらいの整形手術を受けようと決めていました。
結局のところ、高校で自己肯定感を上げてくれる友達に恵まれたおかげで、整形せずに済みましたが。
でも、だからこそ、思うのです。
髪型、メイク、服装、肌質改善など、見た目を少しでもベターにする方法なんていくらでもある。
一方で、どんなに大金を支払っても、性格などといった内面的なものを変えることは誰にもできない。
さらに言えば、性格は、努力をしても変えることはできない。
自分の本当の気持ちに蓋をして、理想の自分に近づくことは可能かもしれないですが。
「教える」ということ
母が、いつもづっきーの性格がマシになることを望んでいることには気が付いていました。
でも、無理でした。
見た目はなんとかマシになったと思いますが、性格を変えることは難しかった。
だから、もし、教育する側の人間にひとつだけ提案できるなら、
勿論、見た目に関わる悪口を言ってはいけない、というのは全会一致で正しい教え
でも、だからと言って、見た目に関する悪口に固執しては絶対にいけない
ということです。
づっきーは、性格とは、先天的にも後天的にも獲得することがあり得るもの、と考えています。
一度獲得した性格は、その人物にとっての重要なアイデンティティになります。
だからこそ性格は、そう簡単に変化し得るものではないし、変えられるべきではないのだと思います。
考えてみてください。
「私は明日から、こういう性格になります!」
って人前で宣言して、みんながみんな、それを体現することができると思いますか?
見た目に関しても、性格に関しても悪口を言ってはいけないのだとしたら、
一体、どんな悪口だったら言っても良いのでしょうか。
それを自分の中で考え、整理してから、悪口を言ってはいけないことと、その理由を
教え子たちに諭すべきだと思います。
なぜなら、先生とは本来、生徒の模範的存在であるから。
”教える”という行為は、教えられた人の今後の考え方や視点に関わることです。
「先生」という肩書きには、それだけ重大な責任が伴っているのだと思います。
しかし、づっきーは、そんな「先生」という存在が嫌いでした。
小学生のとき、先生がいない間に喋っていただけで、
「先生は遊んでいたわけではありません。先生がいない間におしゃべりしていた生徒は名乗り出なさい」
なんて理屈を生徒に押し付けて、ストレスを発散している先生たちを何人も見てきましたし、
偉そうに生徒指導する割に、自分自身を律することができていない先生も何人もいました。
先生とは、なんて理不尽な存在なのだろう、とずっと思ってきました。
とりわけ小学校の教師は、1人に与えられる仕事量が膨大すぎるのも、先生自身が持つ本来の
「先生」としての理想像を理想に留めさせていた要因となっているかと思います。
(まあ、何にも、特に人間には興味がなかったづっきーにしては、嫌い、という感情が発生していただけマシかもしれませんが。笑)
話が少し逸れてしまいましたが、づっきーが教える立場にある人間に言いたいことは、
自分の考えとか発言が、教えられた側の人間の今後を左右するかもしれない
ことを忘れないでほしい、ということです。
これは、先生に限らず、公の場で発言する政治家やコメンテーター、インフルエンサー、親
等々、いろんな人が意識しなければならないことだと思います。
最後に
このブログは匿名であり、づっきーが自分の考えていることや、自分の本当の気持ちや感情について
吐き出すためのものです。
しかし、自分だけの世界ではない以上、づっきーにも、上記でお話しした発言に対する責任はあります。
そして、今更ながら気が付きましたが、今回は、母方寄りにしようとしてきたづっきーが、
父親の血である「田中」を感じる瞬間について語っていく回でした。
まあ、でも、本質は一貫しています。
性格とは、そう簡単に変えられるものではない、ということ。
100人いたら100通りの考え方や視点があって当然です。
私たちは、誰ひとりとして同じ人間ではないからです。
話終わらなくなってしまいそうなので、今回はこの辺までとしておきます。笑
それでは今日も、最後までお読みいただきありがとうございました:))
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