こんにちは!づっきーです。
今回は、「ブス」と「美人」を両方経験したづっきーによる、容姿や体型についての考察を述べていきたいと思います。
それでは今日も興味がありましたら、最後までどうぞお読みください。
顔
顔って、本当に理不尽だと思います。
いや、顔そのものが理不尽というわけではなくて、顔に囚われすぎている人間の本質が理不尽
と言った方が適切かもしれません。
「ブス」とも「美人」とも言われて、気が付きました。
どっちもどっちだなあ、と。
そんなづっきーの顔歴史を振り返っていこうと思います。
10歳頃
づっきーは、10歳頃に眼鏡をかけ始め、次第に自分の容姿に自信がなくなっていきました。
一重で、眼鏡をかけていて、顔が大きくて、まるい
ブスの要素を集約させたのが自分の顔なのだと思ってきました。
周囲の人間から直接的に「ブスだ」と言われることもあれば、
朝起きた時など稀に二重になっている時に、こうやって二重のクセをつけていった方がいいよ、
と間接的に言われることもありました。
中学校
中学生になって入った部活が、顔面偏差値が高いで有名でした。
ましてや、づっきーの代は特に高かったようです。
確かに、みんなそれなりに可愛かったです。
その中にこんなブスが1人いると、そりゃ浮きます。
中学生ながら、結局顔が10割なんだろうな、顔が人生を左右するんだろうな、
いや、現在進行形で左右されているか、なんてことを思っていました。
正直言って、学力面での偏差値はとても低かったです。
それでも、顔で選ばれてうまく生きていけるんだろうなあ、と痛感しました。
づっきーの人生のターニングポイント0.5に関わった人たちとは、もう会っていないですし、
恐らくこれからも会うことはないでしょう。
会いたくないからです。
誰もづっきーのことは覚えていないかもしれないですが。
だから、その人たちが今どこで何をしているかなんて知る由もないですし、知りたくもない。
そして、づっきーは引退後、コンタクトをつけ始めました。
高校
ところが一転。
高校に入ると、カラフルでキラキラとした子たちに囲まれ、
いつの日か、なぜか、「美人」と認定されるようになりました。
鼻が高い、とか、横顔のEラインがあって綺麗、とか、みんな良い点を見つけてくれる子たちでした。
それまで自分の容姿について一切の自信も持ってこなかったづっきーにとって、
予想だにしない言葉だらけでした。
顔を褒められる経験を含めて、高校の友人たちに出会えたことは、
づっきーの人生のターニングポイント1となります。
しかし、嵐は突然やってきます。
中学校の部活の後輩がタグ付けしていた投稿に写っているづっきーの顔をみて、
クラスの1人が言いました。(それもクラス中に響き渡る大きな声で。)
「ゆづの顔やばくなーい?」
ああ、見られてしまった。
また、顔のことでバカにされた。
やっぱり、自分は美人なんかじゃなくてブスなのだ、ずっと幻想を見ていたのだと思いました。
そして、その投稿を非表示にしました。
後に、台湾へ一人旅した際に、づっきーの顔をバカにした子にこんなことを言われます。
「登校初日、誰もが認めるクラス1可愛い子よりも、づっきーの方が美人だと思った」と。
大学
大学生になり、上京しました。
そこで、3人の方に、「吉高由里子に似ている」と言われる経験をします。
今でも似ていないだろう、と思っていますが、3人にも言われたのだから、雰囲気くらいは
似ているのかもしれない、と思うことにしています。
バイト先でも、「美人だね」と声をかけられることが幾度もありました。
もちろん、嫌なことではありません。
でも、心のどこかで、素直に喜べていない自分の存在にも気がついていました。
づっきーは美人なんかじゃありませんよ、吉高由里子に失礼ですよ、と。
だって、お金を稼げるようになったらまず顔面を剥ぐ整形をして新しい顔面にしよう、と
幼少期から決意していたほどに、自分の顔が嫌いだったから。
純粋な褒め言葉たちを、純粋に受け入れることは難しかったです。
もしみんなが10歳から中学までのづっきーの写真を見たら、なんと言うだろうか。
これは同一人物なのか、と議論されるのだろうか。
いや、議論が展開されるだけ、まだマシだ。
口を揃えて、「ブスだ」と小馬鹿にしたようにからかわれるのではないだろうか。
それが怖くて、過去を掘り返されるのが嫌いだ。
一方で、美人でいることもメリットばかりではありません。
美人は期待という名の負担がブスよりも何千倍も大きいからです。
何故か世の人たちは皆、「美人=ハイスペックで社交的な人」と思っているのです。
初めてのことばかりで内心ではあたふたしていても、それを表に出すことは許されていないような気がしていました。
見た目だけで、顔だけの第一印象だけで、全てを一瞬で理解できる人だと思わないでほしかった。
美人の社不もいますよ、ここに。
仕事に限ったことではありません。
づっきーに思いを寄せてきた人も何人かいたように思います。
その人たちには、決して何の非もないのですが、
そういったことが苦手なづっきーにとっては非常に気持ちが悪いものでした。
だからこの際、そういう人たちをいけるとこまで利用し尽くしてやろう、と思いました。
これが俗に言う、Bitchです。
ここにビッチ爆誕。
美しい人
外見が美人な人を見かけるたびに、思ってしまうことがあります。
この人の遺伝子は後世に残るべきだ、と。
でも、その人たちも自分と同じで、人と付き合うとかセックスして遺伝子を残すとか、
そういうことが苦手かもしれない。
そこまでの配慮が足りていなかったことを反省。
「美人」というと、顔が美しい人を思い浮かべると思います。
しかし、「美しい人」と言うとどうでしょうか。
外見だけではなく、心の美しさを持った人を思い浮かべるのではないでしょうか。
確かに、心の汚さは、表情や仕草などの見た目に表れるものです。
でも、本当に美しい人というのは、単に容姿の美しさだけでは見極められないように思います。
顔の第一印象があまり良くなくても、案外馬が合って、後に親友になるかもしれないものです。
なんて、長々と書いてしまいましたが、
言いたいことは「ブスにも美人にも悩みの種はある」といったところでしょうか。
自分のことを知ろうともせず、「顔やばい」とか「気持ち悪い」という一言で済まされる痛さ。
勝手に、美人だから仕事できそうとか気が利きそうとか期待されて、
その高すぎる期待に達しなかった場合に他の人の何倍もの批判と絶望を押し付けられる苦しさ。
どっちがマシだと思えるでしょうか。
ブスにも美人にも待ち受けているのは結局、極端な理不尽。
顔社会はとことん不平等を極めているなあ、と日々生きていて感じます。
どこにでも馴染む、”普通の顔”があれば良いのになあ、
いや、そもそもみんな違う顔なのだから、誰の顔を基準として「普通の顔」と定めるのだろうか、
みーんな同じような顔を持つ、顔の社会主義があれば良いのになあ、
なんてことを考えている今日この頃です。
以上が、ブスも美人も経験して得た知見と、それに伴う不満と考察です。
それでは、今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました:))
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