こんにちは!づっきーです。
今回は、感情とその表現について語っていきたいと思います。
”感情に蓋をする”ということ
づっきーは、幼い頃から感情を表には出さないように、ぐっと心の奥底に押し込めてきました。
なぜか、と問われると、そうするしかなかったからです。
記憶上では、声を出して泣いた記憶もありません。
泣いていることがバレたら、自分を被害者に、相手を加害者に仕立て上げて、
あくまで自分は可哀想な立場であると主張しているように見えるからです。
正直、づっきーはこれまで何度も心の中で被害者面(づら)してきました。
自分は何もしていないのに相手は怒っている
そう思うことが何度もありました。
しかし、
「もう何回もここで働いるんだから者の場所くらいちゃんと覚えて。お給料をもらっているんだからちゃんと仕事して。何にも覚えないまま仕事しに来ないで。」
という、ある社員さんからの叱責によって、
自分が何もしていないから、相手は怒っていたのだと、最近になってようやく気が付きました。
正直なところ、金曜日の午後4時間の勤務を3週間程度しかしていないのに覚えられるわけがない
と、その言葉に対して心の中では不満はありますが、その言葉がトドメを刺してくれたことによって、
づっきーは2月の上旬、キッチンで全身の力が入らなくなり、
遂に、身体的に、これまでの人生分の限界を突破した、というわけです。
もちろん、その言葉を浴びた時、逃げ出したくなりました。泣きそうになりました。
でも、その感情をぐっとこらえて我慢して、ただ謝りました。
「すみませんじゃないの。仕事して。」
と、言われてしまいましたが。
過去にも片耳が聞こえなくなったりと、多少の身体的症状はたまに出てはいたのですが、
学校もバイトもなんとかこなせていたので、これが初めての限界突破だったのだと思います。
別の社員さんからのネチネチとした皮肉を浴びる日々に苦痛を覚えるようになり、
かと言って、それを相談できる人もいなかったため、精神的な疲労が蓄積し続ける一方でした。
そして、それは日常生活にも支障をきたす様になり、スーパーでお会計している時に、
あれ、今なにをすればいいんだろう
と、ただカードで支払う、というだけの行為すらままならない状態になっていきました。
そして、幼少期から現在に至るまでもなお、自分の感情がわかりません。
これまでの人生、自分の感情に蓋をして、自分自身の気持ちや気づかないフリを
してきた報い、とでも言うのでしょうか。
感情の加減
ここまで述べてきたように、づっきーは感情表現を最小限にするようにして生きてきました。
これには、直接的ではないですが、幾つか理由があるのかもしれません。
づっきーの父親の家庭は、互いに深くは干渉し合わないような、とても静かな家庭です。
その血も受け継いでいるためか、づっきーは割とプライバシーを気にしてしまう人間です。
一方で、母方の家族は農家ということもあり、プライバシーなんて言葉が存在していないような、
一言発せば、10分後にはお隣さんまで噂が広まるような家庭です。(※個人的な見解です。笑)
母は、今日の出来事や学校で何をしたのか等、よく聞いてきました。
よくある当たり前の光景ですよね。
親には子を把握しておく権利と義務がある。
しかし、づっきーがあまりに話さないためか、母が求めている答えを返せていなかったためか、
ある時、車の中でこう言われました。
「づっきーと2人で車に乗っている時、会話がなくて楽しくない」
づっきーは衝撃を受けました。
母は、づっきーにもっと話してほしいと願っていました。
それからというもの、づっきーは車に乗る時にはいつも、何かしらの話題を持って乗るようにしてきました。
多少の緊張感を持って車に乗るようになりました。
しかし、づっきーの持ち出すトピックは母が求めているようなものではなかったのでしょう。
づっきーが自分の興味のあることを話していても、母はどこか興味なさそうでした。
づっきーは、一度でも味わった、話すことの楽しさをまた忘れてしまいました。
それから、中学に上がり、スマホとイヤフォンをゲットするなり、づっきーは車の中では常に音楽を聴くようになりました。
姉と3人で乗っている時の安心感は相当ありました。
助手席に座っている姉が運転席の母と話すから、後部座席の自分は会話に入らなくて済む
そんな風に皮肉めいたことを考えていました。
だから、と言ったら責任転嫁しているように見えてしまうでしょうか。
づっきーは感情表現が酷く苦手です。
そして、加減がわかりません。
どこまで感情を表に出して良いのか、誰に対して何をどこまで話して良いのか。
現在は、通院しているので心理士さんと、誰も見ていない前提のこのブログに話しています。
だから、加減をあまり気にせずに済んでいますが、その他の友人や家族、周囲の関係者たちに
対する加減を現在も模索中です。
「何考えているかわからない」
づっきーは、小・中学生の頃から友人に、
「づっきーって何考えているかわからない」「どこに感情あんの」
などと、よく言われてきました。
特に隠しているわけでもなかったので、その言葉たちが不思議に感じることが多かったですが、
同時に、安堵している自分の存在にも気がついていました。
づっきーは、相手が何を考えているか、大体分かります。
というか、見える、というか、察することができる、と表現すべきでしょうか。
一方で、周囲の人間にはづっきーが何を思っているのか、どう感じているのか、全く悟られていない。
そのせいで幾度も傷つくことを言われたこともありますが。笑
でも、自分の感情が表情に出ていない、というだけで、
なんだか嬉しいような、安心している自分がいました。
終わりに
づっきーは、相手のことを全て理解する必要は全くないと考えています。
むしろ人間は、多少のシークレットを抱えている方が良好な関係を保ち続けやすいのではないか
とすら思っています。
自分が何を考えているか、何についてどう感じているか、自分自身の100を理解してもらいたい!
という人はそれだけのことを相手に話せば良いだけのことです。
一方で、づっきーは極端かもしれないですが、
づっきーのように、全てを知られたくはない、という人は言わなければ良いのです。
しかし、ここで重要なポイントがあります。
もし、相手も同じような人であるならば、
自分だけ相手を深掘りして、相手には自分を悟らせない
相手が興味を持っていないのに自分だけペラペラ話して、相手に聞き役をさせ続ける
この二極端の行為は、あまりにも傲慢(ごうまん)です。
あくまで、自分と相手の立場を対等に置くことが大切だと、づっきーは思っています。
それが、パートナーであれ、友人であれ、家族であれ、仕事仲間であれ、同じです。
”聞き上手”な人は、単に相手の話を聞くのが上手いというわけではなく、
興味がなくてもその気持ちを表に出していない、もしくは、自分が話すことが苦手だから
なのかもしれません。
これは、日本的慣習の察する文化とは特に関係ありません。
ただ、相手の気持ちに寄り添う、相手を思いやる、という世界中の文化です。
ハッとした方は、一度、一歩下がって相手をよく見てみる、ということをやってみると、
相手の新たな一面が垣間見れるかもしれません。
それでは本日も、最後までご拝読いただきありがとうございました:))
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