【つぶやき】平等

つぶやき

こんにちは!づっきーです。

新年度が始まったということで忙しい日々を送っており、なかなか投稿できていませんでしたが、

少しずつモヤモヤが溜まってきたので、久しぶりに書き留めていきたいと思います。

今回は、「平等」とは何か?「平等」は常に正しいのか?といったことについて考えていきます。

直接的に暴力を受けてきたわけではない、ネグレクトされてきたわけでもない、

だけど、どこかずっと孤独で、見てくれていないような感覚があって、寂しい。

ちゃんと育ててくれてきたからこそ、親の愛情が感じられなかったとは言い切れないし、

このモヤモヤした気持ちを誰かに打ち明けることもできない。

「育ててくれただけ有り難いと思うべきだよ」

そんなことはわかっています。

でも、その言葉を発することができるくらいに満たされている人にはきっと理解しきれない

モヤモヤを抱えて生きている人がいるのも、事実です。

幸い、今まで1人で抱えてきたモヤモヤを理解してくれる、

自分と似たような境遇を持つ先生に出会えたので、現在は少しだけ心の重荷が軽くなっています。

そんな中で、「平等」って一体何なんだろう?と考えることが多くなったので、

づっきーなりに考えていることをシェアしていこうと思い至りました。

それでは今日も最後までよろしくお願いします:))

平等について

以前の投稿でも何度か書いている通り、づっきーには姉が1人います。

づっきーは姉基準で育てられてきました。

両親は言います。

「姉が歯列矯正をした時お金を出してあげたから、づっきーにも出資する」

「姉が自動車学校に通った時お金を出したから、づっきーの分も同じように出す」

「姉がこの習い事をやっているから、づっきーも一緒にやったらいい」

これらは全て、「平等」に見えるかもしれません。

姉が始めたことに関しては、親からの了承を得ることが容易でした。

(結局歯列矯正もしませんでしたし、運転免許もまだ取得していませんが。)

しかし、づっきーが「やってみたい」と言ったことを実際に始めることは、ほぼ不可能でした。

づっきーの「やってみたい!」

小学生の頃、地元のよさこいチームを見て「やってみたい!」と母に言いましたが、

微妙な反応をされ、そのまま受け流されてしまいました。

また、同じく小学生の頃、

友人が硬式テニスを習っていることを知り、「やってみたい!」と懇願しましたが、

これもまた「ちょっと待って」と言われ続け、結局そのまま小学校を卒業しました。

姉の習い事と、づっきーの続けたい気持ち

時系列が少し前後してしまいますが、

幼稚園の頃、姉が水泳教室に通い始めたことにより、づっきーも一緒に通うことになりました。

もちろん別々のクラスなので、それぞれの友人たちと通っていたのですが、

づっきーの友人たちは辞めていってしまったことで、自分も楽しくなくなり辞めました。

づっきーが小学1年生の頃、姉が英会話教室に通い始めたため、一緒に通わせてもらうことになりました。

しかし、姉は割とすぐに英会話教室を辞め、水泳一筋でやっていくことにしたようです。

一方のづっきーは、英会話が本当に楽しかったので、続けることにしました。

ご想像の通り、かどうかはわかりませんが、

英会話を続けることもそう簡単なことではありませんでした。

英会話教室の先生がご結婚を機に教室を閉鎖してしまったため、

姉と一緒に通い始めた英会話教室に通ったのは小学校5~6年生まででした。

しかし、づっきーは英語を続けたいという意思があったため、別の英語教室に通い始めました。

最終的に中学校卒業までその教室に通ったのですが、

その間に幾度となく「もういいんじゃないか」「もう十分勉強したんじゃないか」と母に言われ続けていました。

母が、づっきーの「やってみたい!」を受け流してきたように(と言ったらとても皮肉めいていますが。笑)、

づっきーも母のそんな言葉たちを流し続けました。

とはいえ、かなりのストレスでしたが。

づっきーは英検を受けるたびに合格し、どんどん級を上げていき、結果で答えてきたつもりです。

もちろん、合格したときには褒めてくれました。

それでも認めてくれなかったのは、きっと母にとって、

づっきーにかかるお金はもったいないから、なのだと思います。

今だから分かります。というか、今更ながら気がつきました。

姉=づっきーではない

当たり前のことですが、姉はづっきーではないし、づっきーは姉ではありません。

姉が興味を持ったこと全てに、づっきーも興味関心を抱く、なんてことはありません。

当たり前のことは、それが当たり前であるからこそ、つい忘れてしまうのだと思います。

両親に悪気がなかったことは百も承知です。

ただ、

「姉がやっているからづっきーにもそれを始める権利が与えられる」

「姉が辞めたからづっきーもやめ時だ」

「姉が興味を持たなかったから、づっきーだけやらせてあげることはしない」

同じことを同じだけ経験させることが、必ずしも「平等」とは限らないのではないでしょうか。

全く同じ人間が2体生まれてきて、趣味、性格、人格が合致しているならば、

同じことを同じだけ経験させることが「平等」と定義されて当然です。

しかし、現時点の地球内生命体においては、あり得ません。

つまり、人は1人として同じ人はいない、人の数だけ人の特色がある、ということです。

血の繋がった家族だから、きょうだいだから、

と安易にくくりつけることに対して、づっきーは異議を唱えたいと思います。

終わりに

括りのせいでづっきーはやりたいことができない幼少期を送ってきました。

そのおかげで、やりたいことは自分の手で掴もう、と少しだけ勇ましくなれたのかもしれませんが。

でも、正体のわからない、これから埋まることもきっとない、ぽっかりとあいたままの心の穴を抱え続けて生きています。

冒頭で少し書いたように、

幼少期からの寂しさの積み重ねによって、愛情を理解することができません。

そんなづっきーに共感してほしいわけではありません。

ただ、「普通の家族」を定義づけることはできませんが、オーディナリーではない環境で育ってきた人もいる、という事実を理解しようとしてくれたら嬉しいです。

づっきーは最近始めたアルバイト先の方々のおかげで一般的な家族像を少しずつ知り始めています。

大学生になって、家族とは何か?について理解していない自分の存在に気がつきました。

今まで自分が当たり前のように取ってきた家族との距離感が、周りの家庭のそれよりもかなり遠いことを知りました。

「仲良いとか悪いとかの問題じゃない、だって家族なんだもん」

と言われた時は、何を言っているのか全く理解できませんでした。

づっきーにとっては、血を分け合った家族とはいえ、他人であることに変わりはないからです。

理解できなくていいんです。

理解しようとしてくれたら、それだけで救われることを知らない人が多いようです。

知らないから怖いと思うし、知らないから受け入れたくないと拒否してしまう。

見た目が嫌だからと食わず嫌いしていたものに挑戦してみたら、案外美味しかったなんて経験もあるのではないしょうか。

同じような思いや経験を抱える人が手遅れになる前に、誰かに受け止められることを願って書いています。

このブログはそのためにあります。

理解してもらいたくて必死にもがき続けて、それでも否定され続けて、何度も何度も人生を諦めようとしたけれど、なんだかんだこうやって生きているづっきーが書いているのです。

人は、本当に辛い時に人生を諦めるのではなく、自分に興味がなくなった時に人生を手放すのだと思います。

自分を見つめることは、人生を立て直し、これからに転換していくために非常に大切なことです。

しかし、自分に集中し過ぎると、自分に興味がなくなってしまった時に逃げ場がなくなってしまいます。

ひとつでいいので、自分以外の何かに興味を持つ習慣をつけてみるのもいいかもしれません。

趣味を見つけるとか、大掛かりなことである必要はありません。

この壁はこんな素材だったのか、とか、あの木は今日も大きいなあ、とか、

身近なものに目を向けるのは、非常に有意義なことだと思います。

余裕があれば実践してみてください。

それでは今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました:)

またいつかお会いしましょう。

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