こんにちは!づっきーです。
今回は、づっきーから見た「家族」について語っていこうと思います。
ただのコメディドラマだろうと思って観始めた”日本一の最低男”というドラマを観て、
改めて家族の存在について考えさせられました。
毎回のことですが、
このブログは、づっきーのづっきーによるづっきーのためのプラットフォームなので、
づっきーなりの独断と偏見による率直な気持ちについて書き留めていきます。
家族
づっきーは、ずっと自分の家系はお金で繋がっていると思ってきました。
この一文に批判したくなる人も多いと思いますが、自分がそう思って生きてきた以上、
そういう家庭もなくはない、ということを新たな視点として捉えて頂ければと思います。
特段、育児放棄されてきたとか、DVがあったとかは一切ありません。
なぜ、自分の家系がお金で繋がっていると思ってきたか、に対する答えはとても複雑です。
自分自身ですら、まだ答えが見つかっていないですし、答えなんてないのかもしれません。
気持ちという、目には見えないものなので。
お金で繋がる
づっきーは、比較的いとこの人数が多いと思いますが、毎年お年玉は十分もらえていました。
誕生日のお祝いも、無宗教のクリスマスプレゼントも、目にみえる形でもらってきました。
それが当たり前だったからこそ、親の誕生日には姉とお金を出し合い、物を渡していました。
他の家庭では、お祝いや感謝の気持ちを言葉で伝えていると知ったのは、
姉が一人っ子のパートナーと付き合い始めてからでした。
サンタさんは親だってことを理解している現実主義的な面倒臭いタイプの子供だったので、
幼い頃は、親が「サンタさんがプレゼントくれたね、よかったね」というような、
理想的なクリスマスを味わいたくて、おもちゃなどをもらっていました。
祖父母は会うだけでお小遣いをくれるし、親戚でご飯に行くと、必ずと言っていいほど、
誰が奢るか論争が始まります。
づっきーはこれでも末っ子ということもあってか、従兄弟でさえ奢ってくれることも。
づっきーは基本的にお金がないので、全くみんなの気持ちが理解できませんが、
みんなの”お金による奉仕”の精神がメラメラでもう少しで可視化されてしまいそうです。
とまあ、こんな感じでお金で繋がってきたので、今でもお金で祝福される喜びは大きいです。
お金=幸福、か否か
この議論は、づっきー的世紀を超える未解決事案だと思っています。
づっきーは基本的にこの仮説に賛成派です。
お金があることで、実現可能性の高まる夢や目標の数は多少なりとも増えると思うので。
なんでもbetter than nothingという考え方からすると、賛成せざるを得ません。
母
づっきーからみて母は、いてほしい時にいないおっせかいな人、というイメージです。
返信してほしい時に限って何時間も返ってこないくせに、インスタのストーリー等、
いちいち反応しないでほしいことには秒で反応してきます。
これまでに何回、母をブロックしようと思ったか。(これは内密です。)
マーフィーの法則、それが母親っていうものなんですかね。
でも、だからこそ、
づっきーのことを全部理解しているとか、知り尽くしているとか思わないでほしい。
何にも知らないよ。
づっきーが、いつ、どんな時に、何を、どう感じているか。
ある時、母に「づっきーは感情を表に出さないから分からない」と言われました。
またある時、「づっきーと車に乗っていても、話が盛り上がらないからつまらない」と言われました。
それから、何かしらの話題を持って車に乗るようになりました。
でも、話してという割に、づっきーの話に興味関心がないことは見え見えでした。
正直どうでもいいって思っているんだ、と生まれてから数年もしないうちに気づきました。
母と姉は似ていて、話がよく合うから。
これは決して、母を責めるための文章ではありません。
母にとって最初にできた子が姉だったから、きっと2人目も同じような子が生まれてくるだろう
そう思っていたはずです。
そうしたら、こんな姉とは正反対に位置する奴が生まれてきてしまった。
づっきーは劣性です。
こんな変わった感性の子を育てる苦悩なんて知れたもんじゃありません。
づっきーも未だに、自分は本当にこの家の一員なのだろうか、とよく悩みます。
だって、こんなにも家族と話が合わないのだから。
家族にも馴染めないのに、社会に馴染もうなんて考える方が阿呆らしくなってきます。
また別のある時、「どうしてそうなるの、その考え方が理解できない、普通に考えて」と言われました。
母には、づっきーのことを理解することはできません。
でもそれは、づっきーが自分なりの”普通”に従って生きているだけなので、
それは決して母のせいではありません。
秘密主義
母はよく、づっきーのことを「秘密主義」と言います。
理解されないってわかっているからこそ、あえて何も言わないようにしてきたので、
そう思うのも当たり前です。
でも本当は、どんな反応されるのか怖くて言えない、というのが本音です。
もしかしたら好意的な反応をが返ってくるかもって一瞬期待して言ってみるものの、
結局いつも通り、否定的な言葉しか返ってきません。
そりゃあ、当然のことですよね。
姉とづっきーが真逆、ということはつまり、母とづっきーも真逆ということになるので。
自分と似ていて、明るい姉といる方が断然気が楽なんだろうな、と思います。
興味がないわけではない
とはいえ、母のことを嫌になる瞬間がちょっとだけ多いだけで、興味がないわけではありません。
おせっかいなところと、首を突っ込まれたくない時に限って首を突っ込んでくるところ以外は、
明るくて、情のある、素敵な母親という印象を持っています。
結局、今までも何かあれば母に相談してきた、という恩もありますし。
猫の次に、ですが。
まあ、相談できるほどの友人もいなかったし、学校の先生という存在も嫌いだったので、
仕方なく母に頼っていた、という部分もあります。
それでも相談してしまう、のが母親というものですね。
終始ほぼ文句しか言っていないですが、父親がほぼ不在の状態で2人の子を育て上げた母はすごいです。
父
父は正直、近しい関係にはない、と言いたいのが本音かもしれません。
幼少期は特に仕事が忙しそうで、起きている時間が違っていたので、基本的にあまり会ったことのないというような感覚です。
勿論、仕事が忙しいのも、平気で残業させる企業側の責任なので、父が悪いわけではないことは理解しています。
まあ、強いていうなら、職選びのセンスがなかったっていう感じですかね。
づっきーも人のこと言えないですが。
それでも、一度、父が休みの日に幼稚園バスまでのお迎えに来てくれたことは覚えています。
よほど嬉しかったんでしょうね。
同居人のおじさん
父との距離感を表すのは非常に難しいです。
別に嫌いでもないし、かと言って好きでもない、つまりあまり興味ない。
学校で、友人がパパがパパがってパパ好き自慢してくる意味が理解できませんでした。
パパって、そんなに仲良いものなの?って。
だから、父親について表現するときは、いつも”同居人のおじさん”みたいな感覚と言ってきました。
今でも、父といると何かと気を遣います。
観たいテレビも観れないし、リビングルームに一緒にいるだけで限界です。
なんか、同じ空間にいることが気まずくて苦手です。
働く父と育てる母
父は、いつも穏やかで優しくて、父に怒られたことはほとんどありません。
母を通して、全部言っていたからだと思います。
直接注意すればいいのに、怒ってくればいいのに、どうしてそれをしてこないのだろう。
父親なのに。
そう思ってきました。
幼少期に家を空けていたせいで、づっきーたちとの距離感を掴み損ねたからなのだと思います。
だからと言って、なんでも母に突っかかるのもどうかと思いますが、
父の父も同じような人だったようなので仕方ないのかもしれませんね。
根は頑固で言いたいことは沢山あるくせに、子供を躾けるのは母親の役目だと思っているから自分からは何も言わない。
手を汚すのは母親の役目っていう思い込み。
古。
そもそも、痛い思いをして、死にかけそうになりながらも自分の生命をかけて、
自分らの子供をこの世の存在として産んだ母親に感謝するべきであり、
もしその意を表現したかったのなら、もっと家族と向き合ってきたんじゃないかなって。
それができなかった分、3人で自由にさせてもらったことには感謝しています。
正直、それが苦しいと感じることも多かったですが。
とは言え、づっきーの人生に首を突っ込んでこないなら、それだけで十分です。
姉
真逆。
この二字熟語は、姉とづっきーを表現するために創られたのではないか、と思ってしまうほど、
づっきーたちを表すのに最適な熟語です。
姉は白でづっきーは黒、姉は社交的でづっきーは社不、姉は器用でづっきーは不器用。
共通点を挙げるとしたら、生物学的な性と、具合悪そうに見える肌色くらいですかね。
づっきーは基本的に場に馴染めたことがなくて、常に浮いてて、みんなの”普通”が理解できなくて
という感じで、「変わってるね」「Uniqueだね」なんて褒め言葉(仮)をもらってきました。
それに対して、姉は、ほぼ全てにおいて平均を保っている、というイメージです。
場に馴染みすぎて、どこにいるか分からないほど。
服の好みも、顔のタイプも、部屋の趣味も、いわゆる典型的な女の子って感じです。
正直、真逆に位置しているづっきーから見た姉の人生は、少しつまらなさそうです。
だって、刺激がなに一つないように見えるから。
まあ、姉には姉なりの人生の歩み方があるので、これ以上あーだこーだ言うつもりはありません。
リンゴジュース
姉の生き方って、リンゴジュースみたいなんです。
滑らかで、半透明で、ほとんどの人にハマる。
川の流れに身を委ねているように、流れるように人生を送っているように見えます。
姉は姉なりに自分の人生に満足しているようなので、それで良いのだと思います。
勝手に姉の人生をつまらなさそう、なんて批判してしまいましたが、
流れるように生きることが叶わないづっきーは、そんな姉がずっと羨ましかったのです。
あれだけ馴染めたら、自分の人生はもっと楽だったろう、と。
姉にも表には出さない苦悩はあるのだと思うので、不謹慎なのはわかっていますが、
あまりに羨ましくて、どうしてもそう思ってしまうのです。
最後に
づっきーの家系、家族はお金で繋がっていると思います。
ある家庭は、情で繋がっているかもしれません。
でも、家族の形に、正解はないわけであって、繋がり方がどうであれ、
”繋がっている”と感じているのであれば、それで良いのだと、書いていて思いました。
例え血の繋がった家族であれ、お互いを全部理解しあえるわけではありません。
家族だからこそ、理解できないのかもしれません。
不条理にも、こうであってほしい、なんていう理想を押し付け合いやすいのも、
また家族だからなのかもしれないので。
「家族」について言いたいことは、ただひとつだけ。
家族のあり方に正解も不正解もない、ということです。
だって、四六時中、紐で結ばれていて、目に見える形で一緒に行動している家族なんていないでしょう。
目に見えない繋がりを感じる人が家族なのかもしれない。
お金で繋がっているとは言え、自ら稼いだお金を子に与えようという意思がなければ、
お金で繋がることもできないわけであって。
なんだかんだ、づっきーの家系も目には見えない情によって形成されているのかもしれないですね。
それでは今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました:))
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