こんにちは!づっきーです。
今回は、DestinyとFateという、どちらも日本語では「運命」という意味を持つ言葉について
語っていこうと思います。
今までも”運命”という言葉について、何度か考えていたのですが、
先日、姉の好きなアイドルグループの歌詞の中に”Destiny”と出てきて、
どういう意味?って聞かれたことから、一度自分の考えを書き出してみよう、と思いつきました。
DestinyとFate
まず最初に、同じ「運命」という意味を持つDestinyとFateの違いについて解説していきます。
Destinyとは、運命的な出会いなどといった、肯定的な意味の運命として使用されるのが一般的です。
一方でFateとは、運命というよりは、宿命と表現する方がより適しているのではないかと思います。
何かしらの避けられない悲劇的/否定的な運命、といった具合に。
運命-Destiny
先述した通り、Destinyには出会い的な要素が含まれていると思います。
誰でも、運命的な出会いをしたことが一度はあるはずです。
その運命的な出会いの相手は、決して人とは限りません。
見た瞬間にビビッときた服や、物事に対する価値観が変わった映画、美味しいご飯屋さん、、、
生活している中で、実はいろんなところで私たちは何かと運命的な出会いを経験しています。
しかし、時にその運命的な出会いによって悲劇がもたらされることもあります。
づっきーの場合は、自律神経失調症と診断されるきっかけとなったコーヒーショップや、
PTSDの症状が顕著に現れるきっかけとなった中学時代の部活などが挙げられます。
ラテアート
これまで単に苦い飲み物として認識していたコーヒーに出会ったのは、
同じホテルで働いていたバリスタさんのラテアートがとても繊細で、何通りもあって、
づっきーもこれができるようになりたい!という衝動に駆られてしまったからです。
知識やスキルを身につけることに貪欲なづっきーは、次はこれを極めようと思ったのでした。
その時はもちろん、とてつもなくポジティブな出会いとして受け止めていました。
そして、コーヒーショップで働き始めてからは、コーヒーの知識が皆無だったことから、
自分で産地や品種の味わいの特徴などを調べるなど、予習と復習をひたすら繰り返していました。
ラテアートを習得するためには、前段階の試験があったこともそうですし、
お客様との会話の中でボロが出ないようにすることと、何より会話を楽しみたかったからです。
しかし、そんなラテアートとの運命的な気持ちは、一瞬にして消え失せました。
でも、これが腐れ縁というのでしょうか。
づっきーは、どうしてもラテアート習得が諦めきれませんでした。
コーヒーを見るだけで嫌な記憶たちが思い返され、怖くてもうその世界では働くことはできません。
そこで、エスプレッソマシンを購入し、独学でマスターしようと試みています。
さらに、飲みたいわけではなく、ただただ淹れたいという理由でドリップの練習もしています。笑
テニス
づっきーは中学時代、ソフトテニス部に所属していました。
でも実は、づっきーがやりたかったのはソフトテニスではなく硬式テニスでした。
テニスを知ったきっかけは、
硬式テニスの全国大会に出場するほど上手な小学校のある友人の存在でした。
ラケットにボールを当てて、パコーン!パコーン!と打ち合う姿がとても格好良く感じました。
そこで、小学4年生の時に親に硬式テニスを習いたいと申し出ました。
しかし、ちょっと待って、と言われ続け、気がつくと中学生になっていました。
づっきーの中学校にはソフトテニス部しかなかったため、結局づっきーはその部活に入り、
全国大会に出るほどの秀才の友人は部には所属せず、個人で続けていました。
現在でも、テニスは好きです。とても楽しいし、たまにやりたくなります。
そういった意味では、テニスとの出会いは運命的でした。
問題は、人間関係でした。
づっきーは部内での人間関係によって、精神/身体ともに荒れていきました。
テニスの楽しさよりも、人間関係のもつれによる精神的負荷が勝ってしまったようです。
もしも、小学4年生の時に硬式テニスを習い始めていたら、ソフトテニス部に入部しないで済んでいたかもしれない
なんてことを、中学生の頃は、毎日毎日思い続けていました。
づっきーのメンタルが崩れやすくなった要因は中学時代にあると思っているので、
現在でも、記憶が思い返されないように必死に蓋をし続けています。
だからこそ、What if… What if… What if… という思考回路に陥っている時の自分が大嫌いです。
自分に対して嫌いという感情があるだけ、興味がないよりも断然良いのだと思うようにしていますが。
宿命-Fate
そして、同様に”運命”という意味を持つFateについてです。
づっきーは、Fateはどちらかというと”宿命”という言葉が適していると考えています。
嫌でもそうなってしまう運命、そうなると決まっていた運命。
最近、Fateを感じる瞬間が多くあります。
というよりも、カウンセリングによって過去と記憶と気持ちに向き合う作業によって、
自分の人生にはFateが多くあったのだなあ、ということに気がつき始めた、という感覚です。
最も大きいのが、次女の宿命。
2番目に産まれた子には、1人目や3人目以降よりも背負う宿命が多いと思います。
なぜなら、親は1人目の子を基準にして、2番目の子を育てるからです。
決してそれを悪いこととは思っていません。
当たり前のことです。
でも、2番目は個性を認められにくく、1人目と異なっていると受け入れられにくいのも事実です。
特に、づっきーのように、2番目の子の感性がぶっ飛んでいて、みんなが理解できる”普通”が
理解できないと、親は戸惑う他ないのかもしれないですね。
また、1人目の子は初めてできた子だから、より無条件に無意識に愛おしいと感じるのかもしれません。
づっきーは幼い頃から、母親と対立してきたように思います。
づっきーなりの普通基準で話すと、「ママにはその考え方が理解できない」とよく言われてきました。
その頃から、ああ、この人には一生自分のことは理解されないのだな、と直感していました。
それはとても悲しかったし、でもどうして悲しいと感じているのかわからないのが苦しかったです。
過去を振り返り始めてやっと、きっと姉と同じように育つ前提だったんだろうな、と理解できました。
姉は一般常識があって、良くも悪くも”普通”の子です。
”個”の主張はあまりないような、どこにでも馴染んでいける人間です。
づっきーは、そんな姉の存在がずっと羨ましかった。憧れだった。
子供にとって、親に理解されない、というのは、なかなか辛く苦しいものです。
ずっと続く迷路から抜け出せないような気分でした。
でも、今となっては、
づっきーの感性は自分にとって重要な要素であって、何かしらの可能性を秘めているのではないか、
と思うようになってきています。
最後に
話がまた逸れてしまいましたが、2番目の子に課せられる宿命とは本当に多いものです。
1人目は無条件にこういう子なのだ、と受け入れられるし、
3人目以降は、たとえ1人目と2人めの感性が全く異なっていても、新たな感性の子かもしれない、
と考えられるようになる。
でも、2人目って、1人目の事例しかないために、同じ遺伝子を持っているのだから、
同じ環境で育てれば似たように育つだろう、と思われがちなのではないでしょうか。
世の親御様方には、1人目はこんな子だけど、2人目はこんな感性があるんだ、と素直に
2人目の子の成長を受け止めるだけの許容力をつけてから産んでほしいと願うだけです。
2番目に産まれたから、というだけで感性や個性を潰されてしまうのはあまりに勿体無いです。
今回もあまり上手く言語化できませんでしたが、少しでもづっきー哲学が伝わっていれば嬉しいです。
それでは今回も、最後までお読みいただき、ありがとうございました:))
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