こんにちは!づっきーです。
随分と久しぶりになってしまいましたが、、、
今回は、づっきーがずっと前から感じている矛盾について語っていこうと思います。
それでは今日も、暇な時にお読みください:))
矛盾
「矛盾」というテーマについて、教育という観点から語っていきます。
教育
教育する者たちは、
「学校に通うことができているだけ幸せだと思いなさい」
「勉強ができる環境に身を置いているだけ有り難いと思いなさい」
と口を揃えて言います。
しかし、本当にその論理は100%全員にとって正しいと言えるでしょうか。
学校に通いたいけれど、病気や貧困など様々な理由によって学校に通えない子たちはたくさんいます。
それは、紛れもない事実です。
勉強したい、学校ってどんなところなんだろう、勉強ができていればもっと違う世界を見れるのかな
なんてことを思っている子もいるかもしれません。
でも、教育を受けることを切に願う子たちがいる一方で、
クラスに馴染めない、人と関わるのが苦手、1人で勉強した方がよっぽど効率が良い
などといった理由によって、学校に行きたくないと願う子たちの存在を忘れてはいけません。
学校に通えて、教育を受けている子たちみんながみんな、それを幸せなことと感じているとは限らないのです。
学校を苦痛に感じている子たちもそう少なくはないのではないでしょうか。
現に、づっきー自身がそうであったように。そして、現在もなおそうであるように。
づっきーと教育
づっきーは、小中高大と教育を受けてきました。
その経験から、勉強することの楽しさや大切さは十二分に体感してきたつもりです。
自他ともに認める、知識を身につけることに貪欲な人間であることからもわかると思います。
小学生の頃は、完璧主義な性格からか、常に学年で1番を取り続けるような生徒でした。
どの科目でも100点を取らないと気が済まず、体育の時間も基本的にお手本をしていました。
一方で、休み時間に外で体を動かして遊ぶことは好きではなく、ほぼ強制的に先生に校庭まで連れられて、渋々鉄棒でぐるぐる回り続けて時間を潰す、というような怠惰な生徒でもありました。笑
中学校に入り、部活内の人間関係によって、づっきーは壊れ始め、少しずつグレていきました。
テスト勉強を怠り、結果もそれに応じて悪いこともありました。
それでも、結果的に数学と英語で満点を取ることもありましたが。
「人間関係」の問題に直面したづっきーは、自分が学校を苦痛に感じていることに気がつきました。
同時に、学校が向いていないことも見えるほどに感じていました。
でも当時は部活が週7日あり(現在ではありえないことですが。笑)、休む選択をする暇もなく、
ただひたすら学校に通い続けていました。
壊れ始めたづっきーは、恐らくその時にはもう限界を超えていたのだと思います。
毎日ベッドに入ると、フラッシュバックが始まるのです。
その日までに起こった嫌な出来事が掘り起こされ、数時間は寝付けない生活になっていました。
気がついた時には、その生活が当たり前になっていて、もう半ば手遅れというような状況でした。
辛くて苦しい、でも休む暇はない。
そして、限界を超えている自分の感情に蓋をし続け、そのまま中学校を卒業しました。
高校に上がると、学校に対するモチベーションが一変します。
キラキラと輝く個性たちに囲まれて、初めて学校に通いたいという気持ちが湧きました。
本当に友人には恵まれていたのですが、結局づっきーは次第に学校をサボるようになります。
なんだか、飽きてしまったんですよね。笑
熱しやすく冷めやすいHSP気質は健在していました。
高校3年生になり、大学受験を決めた夏休み以降、授業を受けるだけ時間の無駄に感じてしまい、
受けたい授業だけ参加していました。
自分で勉強した方が効率が良い、と感じたのはこの時です。
最終的に評定平均4.9で卒業したのは、奇跡的に優しい先生方のおかげ以外の何物でもありません。
こんな感じなづっきーは、学校が向いていないことが明白かと思います。
つまり、この経験から何が言いたいかというと、
勉強が好き=必ずしも学校に通うことも好き
ということにはならない、ということです。
もし、5教科のみならず、何か熱中できる分野があるのであれば、その興味をとことん掘り下げる方がよっぽど将来に繋がると思います。
学校に通えていて、学校が楽しいと感じているならば、それに越したことはないのかもしれません。
しかし、勉強は好きだけど、学校に対して苦手意識があるのであれば、
我慢して、自分自身を壊してまで”学校”という社会に固執する理由なんて全くありません。
づっきーの社会適応性
こんな言葉が存在するのかは分かりませんが(笑)、
づっきーは21歳にして、初めて発達障害に関するテストを受けました。
ASDとADHDの2つのテストを受けて、結果的にはどちらも確認されませんでした。
ASDに関しては、あと1点で該当していたのでかなりギリギリを攻めていましたが。
しかし、点数的には該当していないとはいえ、内容的にはASDにおける、
「社会的スキル」「注意の切り替え」「コミュニケーション」の3項目で基準値を上回っていました。
ここまでくると、むしろ確認されたほうが腑に落ちるな、とも思いましたが。
この3項目を簡単に説明すると、
社交的な場面が苦手、二つ以上のことを同時に行うことが苦手、雑談が苦手
ということが言えます。
この結果からも、づっきーが学校という社交的な場に馴染むことや友人と良好な関係性を保つことが苦手なことも納得がいきますね。
まとめ
今回は、教育という観点から矛盾について考えてきました。
自分自身の経験からも、学校に通うことが必ずしも正しくて、幸せなことであるとは断言できないことが言えます。
確かに、持っていないことよりも、持っていることの方が幸せなことかもしれません。
0×0=0であるように、無知からは何も拡がらないからです。
現に、づっきー自身も、学校に通う経験をしたおかげで、自分が見ている世界が端くれに過ぎず、
想像できないくらいに広い世界がこの世の中にはあるということを知りました。
でも同時に、学年が上がっていくにつれて、ただ勉強するだけではいけない、
学校という社会に馴染まなければいけないプレッシャーが膨張していきました。
そして、結果として爆発しました。
果たして、学校で教育を受けていることが自分にとっての幸いなのか、わからなくなっていきました。
それもこれも全て、経験したからこそ語れることではありますが、
これまでの経験ひとつひとつは本当に経験しなければならないものだったのだろうか、
逃れる道はなかったのだろうか、そういう思いもあります。
勉強して知識を身につけていくことは楽しいです。
それは今も変わりません。
しかし、知識を身につけるために学校に通い、勉強とは直接関係のないことで病んでいきました。
テストで100点を取っただけで憎まれ、友人よりも順位が良かっただけで死ねと言われる必要はあったのでしょうか。
学校なんて行かないで、1人で勉強していればよかったな、と後悔する瞬間を幾度となく味わいました。
義務教育なんて制度無くなればいいのに、とずっと思っていました。
人と関わることで病むくらいなら、孤独を選択する方がづっきーにとってはよっぽどマシでした。
勉強したい、でも学校にはいきたくない、と孤独に頭を抱え、涙を流している人には、
学校にいかない選択をすることも立派なことじゃないかって言ってくれる人がいてくれることを、ただただ願うばかりです。
この世は、それだけ矛盾に満ちているわけだから。
そんなことを考える今日この頃でした。
今日も最後までお読みいただき、ありがとうございました:))
  
  
  
  

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